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チラシのおもて

すきなものについて

ダルデンヌ兄弟『ある子供』と虐待問題について。

ゼミの友達が「虐待」についてを題材に卒業論文を書いていて言いたい事は分かるけど、あまり上手く言語化し伝える事が出来ていなかった様に思える為、僕なりに虐待について思った事を書きたいと思った(皆の卒論に突っ込み入れたい気持ちもある。というか発表の時に意見とか言えば良いのにって自分でも思うけど、シャイなので人前で発言するのが恥ずかしいのです...笑)。その卒論の中で語られる虐待を生んでしまう要因の一つが貧困である事には、半分同意で半分反対である。それについては後々、語るが忘れっぽいので語らないかもしれない(笑)あまり自信のない僕だけど、映画という物差しを通じて社会を見つめる事を唯一と言ってもいいくらいに得意としているので、虐待について映画を通して語っていこうと考えています。それって”虐待なの?”と読んでいて思うかもしれないですが、虐待と言っても育児放棄(ネグレクト)だったり、広義な意味での虐待と捉えて欲しい。

育児放棄を題材とした是枝監督の『誰も知らない』(2004)と悩んだが、ベルギー・フランスの合作映画で、ダルデンヌ兄弟(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ)が監督を務めた『ある子供』(2005)について取り上げたいと思います。他にも異なる社会問題を描いた物ですが、どちらも格差社会を描いた中国のジャ・ジャンクー監督(『罪の手触り』(2013))や韓国のポン・ジュノ(『スノーピアサー』(2013))といったアジアの映画監督の作品も大変素晴らしいのでオススメしたい。僕は同じ様なテーマの映画が同時代に何本も制作される事に大しては必然性があると考えているし、僕が小学生くらいの頃だから10年程前に虐待問題のニュースが盛んに取り沙汰されていたので先ほど挙げた映画と時期が被っている。2004年に児童虐待防止法第2条が改定された事からも、それは伺えるのではないでしょうか(法律の改定で認知度が上がっただけで、それ以前にも虐待はある筈ですが)。では『ある子供』について紹介していきます。とは言っても見たのが2年ほど前で記憶頼りになってしまうので、そこは突っ込みなしで!でも映画には色んな視点があって、人の数だけ解釈がある筈なので、思った事や異論を唱えてくれる人がいたら嬉しい。多分、それも一つの正解だから。後、人気作を叩くとおかしいみたいな風潮があるのは気に入らないというか、とてもおかしな事だと思える。皆が同じ人間じゃないし、全く反論が出ないなんて、ありえない事だ。僕は現代の情報化社会における多様化と均質化は表裏一体なのではと考えています。とても矛盾した物に思えますが、新しい事が生まれても、すぐさま消費され誰もが同じ物を身にまとう時代である様に感じられるのだ(見田宗介さんの著書『現代社会の理論』などを交えて現代の社会や今後について詳しく書いてみたいかも)。なので『君の名は。』の人気もそういう多様性と均質化の共存が理由とも考えられる。で、ようやく『ある子供』の話に移ります!


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あらすじー
20歳のブリュノと18歳のソニアのカップルは、生活保護給付金とブリュノの盗みから得た金で生計を立てていた。二人に子供が出来たとき、ソニアはブリュノに真面目に働くようにと紹介された仕事を教えるも、ブリュノはそれを断ってしまう。
ある時、ブリュノは子供と外で二人っきりになったのをきっかけに子供を養子として売ってしまい、それを聞いたソニアは卒倒してしてしまう。ブリュノは子供を取り返すもソニアは激しく怒っており、ブリュノを家から追い出してしまう。
その後、ブリュノが再び盗みを働いた際に子分の14歳のスティーブが捕まってしまい、ブリュノが自首して捕まるのであった。


記憶が頼りなので、このあらすじの範囲で語る事にしようと思います。タイトルの”ある子供”とは誰の事を指すか、読みながら考えて下さい。まず20歳のブリュノという青年は間違いなく”ある子供”であるのですが、彼は近所の子供といつまでもふざけあってる様な精神的に子供の様に感じられ、所謂、アダルトチルドレンの様な印象を受ける。アダルトチルドレンとは機能不全家庭で育った事で成人してもなお、幼少時のトラウマなどがあり成長しきれない大人と解釈して欲しい。しかし家庭的な環境は選べなかったりするので、それを否定してはいけないし、彼は、彼を理解してくれる誰かの存在が必要であった気がしてならない。そんな”大人だけど子供”である彼は、欲求のまま好き放題に行動を起こしてしまい付き合っているソニアに愛想をつかされ追い出されてしまうのである。子供を大切にしたり、ブリュノよりは大人の様に見えるソニアだが、お人形遊びをする女の子などを見たりして僕は幼い頃から子供にも母性の様な物が最初から備わっていると考えている為、子供を大切に思う心だけが備わっていたとしてもソニアもブリュノ同様に”大人”ではないのではないかと考えている。

そこで”大人”とは何かという事について考えてしまうが、考えすぎると堂々巡りになってしまうので僕の考える”大人”についての定義を挙げる。それは利己的ではなく、利他的であるという事。まさしく他者理解という点にある。自分の為だけではなく、他者に大して献身的になれる事こそが”大人”の第一歩と言えるのではないでしょうか。そんな観点で”ある子供”は誰かについて考えて行くと、ブリュノを知ろうとせず突き放したソニアも紛れもなく”ある子供”と言えるのではないか、そう感じる。最初に考えて欲しいといった”ある子供”とは、登場人物全員に当てはまる事だと思います。

あまり虐待についての知識がないので思ったより書く事が出来ないのだけど、本作で起こるのは子供を売ってしまうという信じがたい点だ(実際にニュースとかでは見る)。その理由として考えられるのが、やはり貧困という問題の様に思える。そして”大人子供”であるという二点だ。最初に貧困が理由である事について半分同意で半分反対と言ったのは確かにデータとして貧困家庭に起こりがちであると言われているのかもしれないが、お金(収入)で幸せを測れる物ではないという考えが僕の根底にあるからだ。無論、教育に必要なのはお金でもあるが、お金では学べない物もあるという事を言いたいのだ。なので消去法で考えると、僕は”大人子供”が増えてしまった事が虐待の理由の最も大きな要因であると思えて仕方ない。きっと様々な欲望を肯定してしまう「消費社会」のような社会の形にも影響があるのだろうが(長くなりそうなのでここでは省くが)。やはり身近にも”大人子供”の存在の増加が伺える。果たして僕が定義した”大人”であると胸を張って言える人間がどれほどいるだろうか。こんな分析をしている僕だって”ある子供”なのだ。

出来ちゃった結婚とか聞くけど、子供が子供のまま大人に成長してしまい責任も取れない状態で、子供を育て虐待に繋がってしまう事はとても悲しい出来事だ。でもやっぱり、この話には貧困が繋がってくるし半分賛成であるのだ。教育がし易い社会というのが実現したら、きっと良い社会になると思うけど、それが出来ないのが現実だ。この問題には正解がないし、多くの人が現場をしって考えていく事が重要な気がする。ダルデンヌ兄弟の作品は、ほとんどがこういう社会派ドラマであったり、映画という物は様々な社会を”知る”為の虚構であり現実であるのだ。しかし映画の感想をちゃんと書くって凄く労力がいるなぁ。「あー、面白かった」で済ましてしまいがちなのでブログ始めて良かった。