チラシのおもて

すきなものについて

岸政彦『断片的なものの社会学』とドラマ『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』

社会学という言葉を聞いて何を思うだろうか。一般的に社会学(sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問であるとされている。ちょっと小難しい事の様に聞こえるが、これが本当に本当に面白い。学校のゼミで僕は社会学についてを少しばかり勉強したのだが、お世辞でもなく、その面白さを前にして体を小刻みに震わせてしまった程だ。勉強が嫌いであった僕は社会学に触れる事で初めて勉強が楽しいと感じた気がしている。でも正直、社会学って今でもよく分からない。その学問についてではなく、社会学者の行動が常軌を逸脱している気がするのだ。社会学者の佐藤郁也が書いた『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』をご存知だろうか。エスノグラフィーとは集団や社会の行動様式をフィールドワークによって調査・記録する手法であって、この社会学者の佐藤郁也さんは実際に暴走族と生活を行う事で、彼らの「まなざし」の先にある社会を導き出すという事を社会学の手法を持ってして行っている。ちょっとビックリする様な出来事であるが、僕が社会学に対して興味を持ったのが、この本であるのだ。何となく社会学がどんな物か分かった人もいるかもしれないが、僕たち人間が触れる様々な物は社会学に結びつくし、全然(前前前世から)と言ってもいい程に社会と関係なさそうな事柄からも社会は見えてくる物なのだ。そんな社会学を使って僕は”ゾンビ”について研究し卒業論文を執筆した。”ゾンビ”という独自の物差しで社会に対する「まなざし」を捉える事にしたのだ。「え、ゾンビ?」と一見、関係のない物と感じるかもしれないのですが、それが結びつく面白さが社会学なのである。このゾンビの卒業論文については、いつかこのブログでも少し触れようと思います。実は以前ブログで紹介したダルデンヌ兄弟の『ある子供』という作品は、そんな社会学的視点から分析をしてみたので、社会学がどんな物か気になった方には、是非とも読んで頂きたい。毎度ながらブログの導入部は、こんな感じでいいのかなと迷いつつ書いていますが、ここから岸政彦さんの『断片的なものの社会学』という本を紹介していきたいと思います。(ずっと読みたいと思ってたのに、岸政彦さんが芥川賞候補になっていて思い出した。)


f:id:gennkissu:20170121003124j:plain

この本は、奇妙な「外部」に読者を連れていく。
大冒険ではない。奇妙に断片的なシーンの集まりとしての社会。一瞬きらめく違和感。
それらを映画的につないでいく著者の編集技術には、ズルさを感じもする。美しすぎる。


哲学者の千葉雅也さんの帯文が、かなり適切に端的に本書の内容を言い当てている気がするのでそのまま引用した。僕も読んでみて思ったが、道ばたに落ちている「小石」という断片的な物が、まるで世界を作り上げる小さな美しき物質であるという事をサラリと言ってしまう驚き。この「小石」の話がとんでもなく面白い物で、この話を通して岸政彦さんの世界に対する「まなざし」が垣間見えた気がしたので、ちょっと多めに本文から引用しますが、出来れば読んでいただきたい。きっと世界の見え方が変わる筈!

 さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。


 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてその時、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そこのことに陶酔していたのである。


 そしてさらに、世界中のすべての小石がそれぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「小石」である、といううことの、その想像をはるかに超えた「厖大(ぼうだい)さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。


 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。


 私の手のひらに乗っていた小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そして世界にひとつしかないものが、世界中に無数に転がっているのだ。


少年時代のちょっと変わった経験の様に思えた”ありふれた話”が最後の最後で、まるで世界の見え方が反転する様な、そんな驚きを与えてくれた様に僕は思う。そして改めてSMAPの『世界に一つだけの花』の歌詞を一言一句、咀嚼しながら聴かねばならぬのである(そんな事はないか)。でも言っている事は至極当然で当たり前な事なのだ。ただ、僕らは、完成した大きな物を”当たり前な物”として疑問も持たず捉えているのだ。例えばだが、どこにでもある自動販売のジュースは、どこで作られ、どこの誰が運んでいるのか。別にコカコーラなんて好きじゃない人が作っていて、運んでる人はペプシ派かもしれない。当たり前の様に朝届く新聞は誰が届けてきたのか、もしかしたら時間のない大学生が早朝だけでもとバイトをしているのかもしれない。いつも本を購入する書店の書店員は、当たり前の様に書店のレジに立っているけど、一人一人はみんな違って、そんな違う一人一人が集まる”場所”には多くの人生が集約されていて、そして、それが世界を構築しているのだ。「小石」だって「人間」だって世界にとっては、小さな一つで、同列の存在で、手に取った「この小石」にも人生があり、世界に一つしかないものである気がした。「小石」一つでも、どこから来て、誰がここまで運んで来たかとか、そんな一人一人、一つ一つの人生を想像するだけで世界は楽しくなるよねと、そんな話なのだ。そして、その様な事を考えて想像された世界は、非常に「物語的」と言えるのではないか。

ちょっと小難しい事ばかり書いてしまったので、ここで石原さとみ主演のドラマ『地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子』について取り上げよう。その中でも第9話で、『断片的なものの社会学』を読んでいる時と同じ様な感動を得た様な気がしたので、それについて少しだけ書きます。菅田将暉が演じた折原幸人(ペンネーム:是永是之)という登場人物は、モデルと作家を兼業はしているが、ちょっと変わり者で将来の展望を持たないニヒリスト的な登場人物であるのだが、そんな彼が第9話では”本当に書きたい物”を見つけるのだ。それが”当たり前を当たり前と思ってもらえる仕事”についてだった。石原さとみ演じる河野悦子(通称えっちゃん)は、ファッション雑誌の様な煌びやかで目立つ仕事に憧れていたのだが、そんな夢とは裏腹に誤字・脱字を修正したりする「校閲」という部署に配属され、その地味である仕事に嫌気がさしてしまうのだ。しかし幸人は、えっちゃんのそんな仕事を目の当たりにし尊敬していたのだ。えっちゃんの様に人々の目には止まらない様なニッチな仕事を取材し、僕たちの生活を当たり前な物としている”当たり前を当たり前と思ってもらえる仕事”について書く事を決心するのだ。

当たり前を当たり前にするために頑張るって大事な仕事だよね


こんな事を菅田くんに言われたら、誰だって、僕だって、ときめきが止まらないのだ。本当に第9話が最高だったと言わざるを得ないのは、この菅田くんのセリフに本作の全てが語られている様な気がしてならないからだ。原作にはない「地味にスゴイ!」を入れた意図が、最終回を残すだけとなった第9話で、ついに分かったと思った瞬間に感動して涙が出てしまった。えっちゃんが携わっている校閲という仕事があるからこそ、いま僕は、そして多くの人々は何の不自由もなく本を読めている。そんな風に、ありとあらゆる”当たり前”を疑う事が社会学の面白さでもあるという事だ。ちゅーか、菅田将暉がニッチな仕事を取材してる姿が、まさしく岸政彦さんの様な社会学者が行うフィールドワーク的な調査法であるのだ。実際に岸政彦さんも数々の人々にインタビューを行う事で社会に対しての「まなざし」を捉える訳だ。そして誰もが人生の中では主役であるし、そんな誰かの人生が断片的に映画とか、漫画とか、小説に投影され”ありきたり”と思えたものが、ポップカルチャーを通して、とんでもなく素晴らしい輝きを放つのだ。もし、このドラマを見てない方は是非とも見てください!菅田将暉の言う”えっちゃーん!”が最高なので....



〈関連する記事〉


ダルデンヌ兄弟『ある子供』と虐待問題について。 - チラシのおもて