チラシのおもて

すきなものについて

広島ひとり旅② 銭湯の話とか。

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前回の続きですが、4〜5時間歩き続けて汗をかいたので、呉にある大和温泉物語(呉市の健康ランド)【スーパー銭湯広島県検索】へ行って、ひとっ風呂浴びてきた。正直、僕は”ちんこ”が小さくて恥ずかしいので同性同士でも裸になるのは、とてもじゃないが嫌な事なのだ。しかし疲れ果ててしまったので止むを得なかった。このスーパー銭湯は高いだけあって結構な充実の設備で、初めて電気風呂なる物に入って本当にビックリして一人で「わーっ」とか「うおお」とかリアクションしてたら知らないおじさんと仲良くなった。そしてサウナも入ったが、サウナでマツコ・デラックスの番組を知らない人たちと見るというのも、中々、粋な事だなと思った。サウナってどうしても周りの人たちと競っちゃうような気がして僕は少し疲れる。僕が勝手にしている事なのだが「この人よりは長く居よう」とか「ちょっと余裕見せる為に涼しい顔してみよう」とか下らない競争心が生まれてしまったりしちゃうのである。関係ない事だが僕はサウナと聞くと『ゴジラ対メカゴジラ』でエイリアンが人間を殺す為に行った「高温サウナ殺し」を思い出してしまうのだ。”サウナで耐久上映”という企画をやったら面白いかもしれないが、2時間の映画だったら何回くらい、シャワーで汗を洗い流したり、水風呂入ってを繰り返すだろうか(笑)そもそも冬の映画館って着込んで行ってるのに空調とかおかしいくらいに暑い所があるから、もう実現している気がしなくもない。


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一度荷物を降ろしたいと思いホテルへ行く為に、一旦、呉線で広島に戻り、広島から路面電車で八丁堀という駅に向かう。路面電車の丸っこいデザインが好きで何枚も写真を撮ってしまった。なんとなく路面電車が走るのもそうだし、街並みといい函館に似た感じが広島にはある気がします。後は、そこだけ歴史が切り取られて取り残された様な場所だったりが多い。戦時中の戦時遺構と呼ばれる物で、函館の函館山に行った時に(元々は軍事要塞)砲台跡やトーチカ*1といった物を見た(トーチカは観光的な場所から外れた場所を一時間程歩かないと見られないので疲れた気がする)。広島を歩いていて気付いたのですが、呉と違って広島の方は中々、可愛い子というか都会的な子が多いような気がした。僕が泊まるホテル周辺は都会みたいで夜も喧騒が聞こえてきそうな気さえする。とりあえずホテルで少しだけ休んで、徒歩10分ほどで着くみたいなのでユネスコ世界遺産にもなっている「原爆ドーム」を見に行った。因みに広島に着いたあたりから雪が降り出して寒い。


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原爆の子と原爆ドーム。教科書とかでは何度も見た事あったのに生は初めてで圧巻で、美しさすら感じてしまった。廃墟が好きな人の気持ちが分からなくもない。

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前回のブログで、すずさんと周作さんが初めて出会った場所として相生橋を挙げたけど、ここにも相生橋があるってどういう事だろ。この辺はサラーっと見て、ホテルのお風呂じゃ味気ないので気になっていた銭湯に向かった。



が、どうやら調べ不足みたいで第4日曜日は営業をしていなかった。広島の名湯とだけあって残念だ。しょうがないかぁと思い上の看板のフィリピンクラブ「エブリナイト」へ颯爽と足を運んだのだ(嘘)。しょうがないから、ご飯を探したのだ。そういえば観光ばっかりに集中していたせいで昼食もまだだった。


なんとなくホテルの近くにある「最強濃厚らーめん ばり馬」に入った。(写真は改めて次の日の朝撮ったので明るい)


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注文したのは人気メニューっぽい「ばり馬味玉」(税込¥788円)だ。僕はラーメンが嫌いだが、これは美味しかったので非常に満足。中々、美味しそうないい写真が撮れた気がするのですが、どうでしょう。僕は普段ラーメンを食べないので、この味玉が普通の卵の様にツッパてなくて箸で掴むとグニョッっと柔かくてビックリした。麺も沖縄のソーキソバみたいな少し硬い感じで噛みごたえがあって美味い(そういや食レポもやった事ない)。それなりに有名なお店らしいのだが、空いていたしホテルを出て50m程の距離にあったのでラッキーでした。何だか広島っぽい物を食べられていない気がするので、明日はお好み焼きでも何でも食べたいと思う。こんな感じで適当にぶらぶらしていた。後は本屋とか何軒か回った。旅行って全く違う景色で驚きの連続なんだけど、本屋はどこも同じようなので落ち着くのだ。最近好きな西野七瀬さんがハマってる『ランド』の1巻を見つけて、つい購入したしまった...。もっとゆっくりしたいが、今回はバイトの都合で一泊二日なので、明日の夕方頃に帰る予定である。どこか一箇所くら行けたらいいですが。宮島の方とか厳島神社を考えてるけど、平和記念公園でゆっくりして帰ろうかなぁ。迷う。とりあえず適当に撮った写真を載せておきます。今日は眠すぎるし、早く寝よう。


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動くものを撮ったので、こんな感じになってしまった。こういう刹那的な瞬間こそが美であったりするので、これでいいんや。

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*1:鉄筋コンクリートの防御陣地

広島ひとり旅 ①『この世界の片隅に』の舞台・呉市

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いま広島にいます。特に目的はなく森見登美彦さんの『夜行』と『この世界の片隅に』を見て、ただ行ってみたくなったのです。ファンが迷惑を掛けているみたいな噂をTwitterで見たので聖地巡りとかする予定はありませんでしたが、事の成り行きでする事になったので色々と旅の記録として書いて行きます!

 

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始発でかなりギリギリでしたので焦ったが無事にお弁当も買って新幹線に乗った。食に大して執着もないので、旅をした時でも吉野家に行ってしまうのですが今日は牛丼3倍分くらいの値段のお弁当を思い切って買ってみました(味は普通!)。食べたご飯の写真を撮る文化がないので、めちゃくちゃ不味そうに撮れてしまったのだが、インスタによく挙げている人とか凄いんだな。よって今回は割愛して次回なにか載せる。

 

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新幹線での3時間50分は読書に充てるつもりでしたが、景色を見たり、朝イチ偏頭痛になって服用した薬の副作用で体がダルすぎて、うなだれたりしていたら、あっという間に到着しました。何の予定も立てて無かったので新幹線で少し調べたら「大和ミュージアム」という所があるらしく、広島に到着後、JR呉線にのり『この世界の片隅に』の舞台である”呉”へ向かいました。向かい側に座る老婦人と一生懸命に景色を眺めていたのですが、なんだか不思議な感じだ。

 

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そんなこんなで呉に付くと、お目当の場所に凄いのがあった。すずさんが劇中で描こうと思ってしまう気持ちが分かる。早速入ってみると、戦時中に活躍した戦艦大和の設計図があったりと貴重な資料が沢山あって知らない僕でもテンションが上がらずにはいられなかった。それらの一つに”「大和」に乗っていた人々”という展示コーナーがあった。大和に乗っていた人々の写真と名前が掲載されており、そこには遺書や手記も展示されていた(向かい側には名前だけの展示も)。名前の下に出身地の情報が記載されており、亡くなった方には赤い文字で「戦死」、生き延びた方には黄色い文字で「生還」と書かれていた。僕がそれを興味深く見ていると、すぐ隣で4歳くらいの男の子が「バクダンがおちたんやな、バクダンがおちた」と能天気な声で独り言を呟いたので僕が話しかけられたのかと思ってギョッとした。更に男の子は一人で語りを続ける。

 

アカがシンダヒト、キイロがイきてかえったヒト、アカばっかり、アカはしんだヒト、バクダンがおちてみんなシンダんやな、イきてかえったってかいてアルけど、ぜったいシンデるやん、なんでバクダンおとしたん・・・?

 

これは僕の横で話していた男の子の言葉を文字にしてみたのですが、男の子の目の前には亡くなった方の遺書があったりと、そんな「空間」でひたすら純粋にその理由を求める男の子の歪さに心の中で恐怖と笑いが起こった。なんだか展示に集中できなくなって、その男の子の言葉ばかりが頭に浮かんでしまう。僕は、この展示の向かい側にある名前だけのコーナーで多くの人を表す名前が書かれていて色な方の人生がそこにあったんだなぁと興味深く思うのだが、どこか違和感を感じていた。そして、その男の子はそれには目もくれない。男の子にとっては「生」か「死」で語ることが何より重要で所謂それは、そこに書いてある人々の記号性だったり人生すら否定されてしまうのだ。でも確かにそうかもしれない。ただ、そこに亡くなった人の名前が厖大な量で書かれている事に大して、大抵の人は興味をそそられないのでは無いかと思った。どこの誰かも分からない、架空かもしれない、そんな”名前”もしくは”文字”に「生」か「死」を与える事で”リアリティ”を生み出そうとしているのかもしれないと、先ほど感じた違和感の答えが男の子の「語り」によって導き出された気がした。何を言っているんだと思われるかもしれないが、こうやって不気味な、分からない”何か”について考えに耽るのが大好きなのだ。でもこの時は、その純粋さゆえの恐ろしさみたいな物に怖くなって、すぐにそこを出た。

 

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で、展示をある程度見たらロビーに『この世界の片隅に』に出てきた場所を載せたMAPが飾ってあったので記念に写真を撮ってたら「それ撮らなくてもあげますよ!」と親切そうなおばちゃんスタッフに声をかけられMAPを頂いて、道案内までして貰ったので聖地巡りをしてみる事にしました。「若いんだから歩いて行けるわよ」「そうよそうよ」と言われたので歩く事にしたが、これがとんでもなく果てしない道のりで、めちゃめちゃ疲れることを僕は知る由もなかった。もう22歳だし若くない気がする。

 

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大和ミュージアムを出て右へ、ずっと真っ直ぐ進む。このくらいの距離なら序の口で、道を間違えたりで右往左往して半端なく疲れました。そして、ここは近くに海軍自衛官の方々の施設があるらしく塀が高い。MAPの右の方にある呉の美術館の近くで作品にも登場した”病院の階段”へ向かいたいのだが道が分からず、自衛官の方お二人に伺ったのが、ちゃんとした場所(実際めちゃくちゃ近くだった)を知らないらしく結局は自力で美術館を見つけた。しかし凄く優しい自衛官の方だったので感謝だ。で、ようやく美術館の近くにたどり着いたのですが、原付に乗った八百屋のおばちゃんみたいな方に声をかけられた。

 

「美術館行きなさいな?行ったらいいじゃない、せっかくだから」。美術館も行きたいと思ってますが、まずは階段を撮ってからだと考えていたので「考えておきます」と適当にあしらったら原付で追いかけてきて「せっかくだから見た方がええよ、見にきたんでしょ」と言われたので渋々承諾すると嬉しそうに原付で颯爽と帰って行ったのですが何だったのだ。でも、こうやって一人で歩いているだけでも”何か”出会いや”物語”が生まれてしまうというのは面白い事だ。一人旅ってこういう物かと初めて分かった気がした。

 

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結局、”アルフォンス・ミュシャ”の展示は気になっていたし丁度良かったので、おばちゃんに感謝だ。でも八百屋で働いていそうなおばちゃんも”ミュシャ”に興味があるのだろうか。人は見かけによらないとは、この事だ。そんなに知らないのだけど、とにかくどの絵も曲線美が美しくて、円の連続性が見ていて心地がいい。色んな形の物が「これでもか!」という位に完璧に配置されてる事に衝撃を受けた。3月には東京で展示がやるはずなので、改めて見返したい。ミュシャと言えばチェコプラハ出身であるので、僕は3月にプラハへ旅行に行く予定で、ミュシャにまつわる場所に行けたらなと考えています。

 

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そしてようやく目当ての階段を撮る事が出来た。少し違うけど、調べて見たらここらしい。うろ覚えだけど、周作さんのお父さんが行方不明になっていて、この病院にいたってエピソードで、この後に悲劇が起こってしまうんですよね。ファンならストーリーを思い出しながら浸れます。

 

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色々とぶらぶらして...

 

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戦後ヤミ市があったとされる場所、周作さんのお姉さんが元いた(?)帽子屋と順々に巡礼していって、澤原邸を目指したんだけど、この地図がよく分からず辿り着けなかったので、途方にくれてあるいていて場所を確認するために立ち止まったら...

 

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すずさんと周作さんが初めて会った(怪物に攫われそうになったところ?)相生橋に辿り着いた。

 

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後ここは少し違うけど、小春橋だ。確か、すずさんに気を使って周作さんが街に連れ出す場面で海兵隊の人が多くて映画が見れなくて、この橋に来たとかだった気がするけど、全然覚えてない!こんな感じで、朝から夕方まで渡り歩いてヘトヘトだったので、ある所に向かいました......(広島ひとり旅②へ続く)

 

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20 Best Movie of 2016.

この時期になると雑誌「映画秘宝」にてベスト&トホホ10と題して優れた映画と惜しくも刺さらなかった映画が評論家や著名人たちによって選ばれる。僕はTwitterで毎年の様に、年間の映画ベスト10と題して順不同で作品を挙げている。今年はブログを始めたのでTwitterとは別に色々と去年を思い返しながら改めてベスト20として挙げていく。





1位 片渕須直この世界の片隅に

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2位 黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』

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3位 トッド・ヘインズ『キャロル』

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4位 是枝裕和『海よりもまだ深く』

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5位 ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』

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6位 西川美和永い言い訳

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7位 樋口真嗣シン・ゴジラ

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8位 深田晃司『淵に立つ』

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9位 クリント・イーストウッドハドソン川の奇跡

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10位 ジェフ・ニコルズ『ミッドナイト・スペシャル』

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11位 中村義洋残穢-住んではいけない部屋-』

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12位 ジョン・ワッツ『コップ・カー』

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13位 アレックス・ガーランドエクス・マキナ

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14位 新海誠君の名は。

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15位 ジョン・カーニー『シング・ストリート』

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16位 リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』

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17位 ジョン・クローリー『ブルックリン』

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18位 李相日『怒り』

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19位 岩井俊二リップヴァンウィンクルの花嫁』

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20位 阪本順治『団地』

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あまり順位をつけるのは得意ではないのだが、パッと思いつく順に挙げてみた。その中の『メッセージ』と『ミッドナイト・スペシャル』に至っては、日本ではもう少し先にならないと見れない。山戸監督の『溺れるナイフ』とか入れたいの沢山あったけど、こうなった。今回挙げた作品については、改めて見返してブログに感想を書く予定だ。去年は例年通り300本以上の映画を観賞できたが、今年に入ってから、ほとんど映画を見ていない。一昨日辺りに試写会で『世界でいちばんのイチゴミルクのつくり方』(2017年2月11日公開予定)という映画を見たのだが、とんでもなく狂った作品だったし、思い出すだけでも恐ろしいので感想は控える。今年は社会人になってしまうので、あまり映画を見られない気がするなぁ。

岸政彦『断片的なものの社会学』とドラマ『地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子』

社会学という言葉を聞いて何を思うだろうか。一般的に社会学(sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を解明するための学問であるとされている。ちょっと小難しい事の様に聞こえるが、これが本当に本当に面白い。学校のゼミで僕は社会学についてを少しばかり勉強したのだが、お世辞でもなく、その面白さを前にして体を小刻みに震わせてしまった程だ。勉強が嫌いであった僕は社会学に触れる事で初めて勉強が楽しいと感じた気がしている。でも正直、社会学って今でもよく分からない。その学問についてではなく、社会学者の行動が常軌を逸脱している気がするのだ。社会学者の佐藤郁也が書いた『暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛』をご存知だろうか。エスノグラフィーとは集団や社会の行動様式をフィールドワークによって調査・記録する手法であって、この社会学者の佐藤郁也さんは実際に暴走族と生活を行う事で、彼らの「まなざし」の先にある社会を導き出すという事を社会学の手法を持ってして行っている。ちょっとビックリする様な出来事であるが、僕が社会学に対して興味を持ったのが、この本であるのだ。何となく社会学がどんな物か分かった人もいるかもしれないが、僕たち人間が触れる様々な物は社会学に結びつくし、全然(前前前世から)と言ってもいい程に社会と関係なさそうな事柄からも社会は見えてくる物なのだ。そんな社会学を使って僕は”ゾンビ”について研究し卒業論文を執筆した。”ゾンビ”という独自の物差しで社会に対する「まなざし」を捉える事にしたのだ。「え、ゾンビ?」と一見、関係のない物と感じるかもしれないのですが、それが結びつく面白さが社会学なのである。このゾンビの卒業論文については、いつかこのブログでも少し触れようと思います。実は以前ブログで紹介したダルデンヌ兄弟の『ある子供』という作品は、そんな社会学的視点から分析をしてみたので、社会学がどんな物か気になった方には、是非とも読んで頂きたい。毎度ながらブログの導入部は、こんな感じでいいのかなと迷いつつ書いていますが、ここから岸政彦さんの『断片的なものの社会学』という本を紹介していきたいと思います。(ずっと読みたいと思ってたのに、岸政彦さんが芥川賞候補になっていて思い出した。)


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この本は、奇妙な「外部」に読者を連れていく。
大冒険ではない。奇妙に断片的なシーンの集まりとしての社会。一瞬きらめく違和感。
それらを映画的につないでいく著者の編集技術には、ズルさを感じもする。美しすぎる。


哲学者の千葉雅也さんの帯文が、かなり適切に端的に本書の内容を言い当てている気がするのでそのまま引用した。僕も読んでみて思ったが、道ばたに落ちている「小石」という断片的な物が、まるで世界を作り上げる小さな美しき物質であるという事をサラリと言ってしまう驚き。この「小石」の話がとんでもなく面白い物で、この話を通して岸政彦さんの世界に対する「まなざし」が垣間見えた気がしたので、ちょっと多めに本文から引用しますが、出来れば読んでいただきたい。きっと世界の見え方が変わる筈!

 さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。


 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてその時、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そこのことに陶酔していたのである。


 そしてさらに、世界中のすべての小石がそれぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「小石」である、といううことの、その想像をはるかに超えた「厖大(ぼうだい)さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。


 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。


 私の手のひらに乗っていた小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そして世界にひとつしかないものが、世界中に無数に転がっているのだ。


少年時代のちょっと変わった経験の様に思えた”ありふれた話”が最後の最後で、まるで世界の見え方が反転する様な、そんな驚きを与えてくれた様に僕は思う。そして改めてSMAPの『世界に一つだけの花』の歌詞を一言一句、咀嚼しながら聴かねばならぬのである(そんな事はないか)。でも言っている事は至極当然で当たり前な事なのだ。ただ、僕らは、完成した大きな物を”当たり前な物”として疑問も持たず捉えているのだ。例えばだが、どこにでもある自動販売のジュースは、どこで作られ、どこの誰が運んでいるのか。別にコカコーラなんて好きじゃない人が作っていて、運んでる人はペプシ派かもしれない。当たり前の様に朝届く新聞は誰が届けてきたのか、もしかしたら時間のない大学生が早朝だけでもとバイトをしているのかもしれない。いつも本を購入する書店の書店員は、当たり前の様に書店のレジに立っているけど、一人一人はみんな違って、そんな違う一人一人が集まる”場所”には多くの人生が集約されていて、そして、それが世界を構築しているのだ。「小石」だって「人間」だって世界にとっては、小さな一つで、同列の存在で、手に取った「この小石」にも人生があり、世界に一つしかないものである気がした。「小石」一つでも、どこから来て、誰がここまで運んで来たかとか、そんな一人一人、一つ一つの人生を想像するだけで世界は楽しくなるよねと、そんな話なのだ。そして、その様な事を考えて想像された世界は、非常に「物語的」と言えるのではないか。

ちょっと小難しい事ばかり書いてしまったので、ここで石原さとみ主演のドラマ『地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子』について取り上げよう。その中でも第9話で、『断片的なものの社会学』を読んでいる時と同じ様な感動を得た様な気がしたので、それについて少しだけ書きます。菅田将暉が演じた折原幸人(ペンネーム:是永是之)という登場人物は、モデルと作家を兼業はしているが、ちょっと変わり者で将来の展望を持たないニヒリスト的な登場人物であるのだが、そんな彼が第9話では”本当に書きたい物”を見つけるのだ。それが”当たり前を当たり前と思ってもらえる仕事”についてだった。石原さとみ演じる河野悦子(通称えっちゃん)は、ファッション雑誌の様な煌びやかで目立つ仕事に憧れていたのだが、そんな夢とは裏腹に誤字・脱字を修正したりする「校閲」という部署に配属され、その地味である仕事に嫌気がさしてしまうのだ。しかし幸人は、えっちゃんのそんな仕事を目の当たりにし尊敬していたのだ。えっちゃんの様に人々の目には止まらない様なニッチな仕事を取材し、僕たちの生活を当たり前な物としている”当たり前を当たり前と思ってもらえる仕事”について書く事を決心するのだ。

当たり前を当たり前にするために頑張るって大事な仕事だよね


こんな事を菅田くんに言われたら、誰だって、僕だって、ときめきが止まらないのだ。本当に第9話が最高だったと言わざるを得ないのは、この菅田くんのセリフに本作の全てが語られている様な気がしてならないからだ。原作にはない「地味にスゴイ!」を入れた意図が、最終回を残すだけとなった第9話で、ついに分かったと思った瞬間に感動して涙が出てしまった。えっちゃんが携わっている校閲という仕事があるからこそ、いま僕は、そして多くの人々は何の不自由もなく本を読めている。そんな風に、ありとあらゆる”当たり前”を疑う事が社会学の面白さでもあるという事だ。ちゅーか、菅田将暉がニッチな仕事を取材してる姿が、まさしく岸政彦さんの様な社会学者が行うフィールドワーク的な調査法であるのだ。実際に岸政彦さんも数々の人々にインタビューを行う事で社会に対しての「まなざし」を捉える訳だ。そして誰もが人生の中では主役であるし、そんな誰かの人生が断片的に映画とか、漫画とか、小説に投影され”ありきたり”と思えたものが、ポップカルチャーを通して、とんでもなく素晴らしい輝きを放つのだ。もし、このドラマを見てない方は是非とも見てください!菅田将暉の言う”えっちゃーん!”が最高なので....



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きらたかし『ハイポジ』が最高に青春だった。

僕は女子高生が大好きだ。誤解を招く言い方かもしれないが制服が可愛くて可愛くて、青春で、最高で、僕が着たいくらいであるのだが、それは恥ずかしすぎるので無理だ。巷でセーラー服を着たおじさんが話題になっていたりする訳だし着れるかもしれないが、それは僕の制服への愛がセーラー服おじさんには到底及ばないって事を理解してほしい。というか生温い覚悟で着ちゃいけないのだ。だって、だって、もしかしたら職質されて逮捕されるかもしれないから...!そんな愛すべき制服を否定するかのような曲が秋元康の作詞でありAKB48の『制服が邪魔をする』である。それが歌詞に現れている気がした。

なんで渋谷は夜になるのが こんなに早いの?
ちょっと会っただけ 2人普通に学校帰り
あっという間に門限近くのゲーセン
だって恋の始めは いろいろあるから

あなたは「帰ろうよ」っていい人ぶって言うけど
本音は違うでしょう? ねえ どうするの?
制服が邪魔をする もっと自由に愛されたいの
どこかへ連れて行って 知らない世界の向こう


青春の一部には間違いないのだが、「渋谷」という立地であるのと、夜に「ねえ どうするの?」と女の子が聞いたりするのは何だが不純な物であると感じる。冒頭で制服への愛を少し語ったか、僕が思っている青春と制服の煌びやかさとか、そんな物を微塵も感じられないのが『制服が邪魔をする』だ。それに相対する曲が松田聖子の『制服』であって、少女が卒業証書を胸に抱き、”卒業”を目前に制服を脱ぐという意味を理解するのである。なので制服には思いが詰まってる物だからオークションとかで売らないで大切にして欲しいのだ。では今年から漫画アクションで連載が始まった、きらたかしさんの『ハイポジ』について書いていきます。おい、駅のホームでジャンプ読んでる君!君だよ君、きっと僕の友達!


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あらすじー
妻に離婚を切り出され、会社もリストラされてしまった46歳の中年男性を描く物語。希望もなく毎日を過ごす彼は、ある日訪れた風俗店で火事に巻き込まれ気を失ってしまう。命を落としたかに思われた彼が目を覚ましたのは、30年前の高校時代で……。


いきなり風俗に通う中年男性の描写で始まるのだが、これが最高に青春だった。中年男性の妄想の様であるが、大学生の僕にとっても高校時代という手を伸ばしても届かない”青春”が羨ましくて堪らないので、これは青春が一度は過ぎ去った人たちに送る最高の青春グラフティなのである。とっても楽しみにしている三浦直之さんという方が主宰している"ロロ"で高校時代を描いたが演劇を上演しているのだが、「まなざし」がテーマにされていて、『ハイポジ』でもそんな「まなざし」によって青春が復活するのである。それは主人公が目を覚ますと「まなざし」の先には高校時代に好きだった女の子が1ページにデカデカと描写される所からも感じられた。もう、すげードキドキが止まらなくなった。主人公の中年男の妻も同じ高校なのであるが、そんなに眼もくれず好きだった本命の女の子”小沢さつき”を「まなざし」で変態さながらに追って追って追いまくるのである。1話から飛ばしすぎだ。これが好きな女の子に対する男の性なので、ブログを見てくれた女性には男心を少しでも理解して欲しいと思う。

小沢さつきの”さつき”と聞いて青春の一部ジャンプを読んでいる読者は思い出さない訳がない。『いちご100%』のメインヒロインの一人である”北大路さつき”だ。『いちご100%』を語りだしたら誰が好きだとか言う話で長くなるので、また別の日に書く予定にしておく。僕的には『いちご100%』は”西野つかさ”なんだけど、最近好きになった乃木坂46の”西野七瀬”を連想せずにはいられない。思った時には写真集をamazonで注文していたし、西野七瀬さんが好きな漫画『子供はわかってあげない』も気づいたら僕の手元にあるのだ。これについても改めて感想を書こう。また脱線しそうになるが、こうやってカルチャーとカルチャーが繋がり合う楽しさが本当に堪らないと僕は思う。

で、こんな事を書いていて思うのが青春って「まなざし」と「繋がりたい」で出来ているのではないか。またまた西野七瀬さんの話になってしまうのですが(ガチ恋ではなく可愛いなと思うくらいなので勘違いしないで欲しい)、好きになった子を自然と「まなざし」で追ってしまうって当然だし、僕が西野七瀬さんの漫画を買ったみたいに好きな子の好きな物を知ろうと「繋がりたい」と思うのは青春にとって切り離せない物であるのだ。そんな「まなざし」と「繋がりたい」が描かれているのが『ハイポジ』なのだ。第1話の後半で「まなざし」で追って眺めているだけではダメだと、「繋がりたい」という一心で小沢さつきに声を掛けるという暴挙に出るのだ。「なにを聴いてるの?」と、さつきに問うと無言で片方のイヤホンを微笑みながら差し出してくれるのだが、その「まなざし」と「繋がりたい」が交じり合い勇気となって「僕」と「君」を音楽だけで繋げてしまうという多幸感。もう堪らなく青春で傑作認定してしまった。後半数ページの独白も青春で青春だったので、とにかく青春が好きな人は読んでみて欲しい。

あの頃の俺ができなかったことをしてやろう

その時イヤホンから聴こえてきたのは中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」だった


翼の折れたエンジェル」は知らなかったので聞きながらブログを書いているのだが、流れでプリプリとか聞き出したら止まらなくなった。如何にも80年代っぽい曲で懐かしさ溢れて何だか寂しくなったのでリアルタイムに80年代が青春だった人たちってどう見るんだろうって気になった。ファッションとか映画とか80年代ブームが最近来ていて、コレだって言葉が見つからないのですが80年代には現代には失われた”何か”があるよね。僕なんてVHSとかカセットテープとか集め出しちゃってるもん。テープの回る感覚とか大好きで、テープを巻き戻しながら80年代に戻らないかなぁとか思いながら一人で切なくなって浸ってしまうのだ。去年公開したリンクレイターの『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』とかも最高でカセットでサントラ買ってしまったなぁ。と、色んな方向に飛んでしまって申し訳ないのですが、高校時代に付き合ったりした事がなかったから制服デートとか本当に憧れで死ぬほど羨ましい。とってもとっても戻りたくなるけど、いつまでも後ろを向いては行けないのだ。まだまだ人生は青春で僕らには出会いが待っている。



実はジャンプの漫画を題材にブログ書きたいなと思い偏愛する仲間りょうの『磯部磯兵衛』についてのブログを書いたのですが、あまりにも下らない下世話な物になってしまったので消した。”候”と”早漏”がどうとか書こうとしてたので消した。だから『いちご100%』にして良かった...。

ダルデンヌ兄弟『ある子供』と虐待問題について。

ゼミの友達が「虐待」についてを題材に卒業論文を書いていて言いたい事は分かるけど、あまり上手く言語化し伝える事が出来ていなかった様に思える為、僕なりに虐待について思った事を書きたいと思った(皆の卒論に突っ込み入れたい気持ちもある。というか発表の時に意見とか言えば良いのにって自分でも思うけど、シャイなので人前で発言するのが恥ずかしいのです...笑)。その卒論の中で語られる虐待を生んでしまう要因の一つが貧困である事には、半分同意で半分反対である。それについては後々、語るが忘れっぽいので語らないかもしれない(笑)あまり自信のない僕だけど、映画という物差しを通じて社会を見つめる事を唯一と言ってもいいくらいに得意としているので、虐待について映画を通して語っていこうと考えています。それって”虐待なの?”と読んでいて思うかもしれないですが、虐待と言っても育児放棄(ネグレクト)だったり、広義な意味での虐待と捉えて欲しい。

育児放棄を題材とした是枝監督の『誰も知らない』(2004)と悩んだが、ベルギー・フランスの合作映画で、ダルデンヌ兄弟(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ)が監督を務めた『ある子供』(2005)について取り上げたいと思います。他にも異なる社会問題を描いた物ですが、どちらも格差社会を描いた中国のジャ・ジャンクー監督(『罪の手触り』(2013))や韓国のポン・ジュノ(『スノーピアサー』(2013))といったアジアの映画監督の作品も大変素晴らしいのでオススメしたい。僕は同じ様なテーマの映画が同時代に何本も制作される事に大しては必然性があると考えているし、僕が小学生くらいの頃だから10年程前に虐待問題のニュースが盛んに取り沙汰されていたので先ほど挙げた映画と時期が被っている。2004年に児童虐待防止法第2条が改定された事からも、それは伺えるのではないでしょうか(法律の改定で認知度が上がっただけで、それ以前にも虐待はある筈ですが)。では『ある子供』について紹介していきます。とは言っても見たのが2年ほど前で記憶頼りになってしまうので、そこは突っ込みなしで!でも映画には色んな視点があって、人の数だけ解釈がある筈なので、思った事や異論を唱えてくれる人がいたら嬉しい。多分、それも一つの正解だから。後、人気作を叩くとおかしいみたいな風潮があるのは気に入らないというか、とてもおかしな事だと思える。皆が同じ人間じゃないし、全く反論が出ないなんて、ありえない事だ。僕は現代の情報化社会における多様化と均質化は表裏一体なのではと考えています。とても矛盾した物に思えますが、新しい事が生まれても、すぐさま消費され誰もが同じ物を身にまとう時代である様に感じられるのだ(見田宗介さんの著書『現代社会の理論』などを交えて現代の社会や今後について詳しく書いてみたいかも)。なので『君の名は。』の人気もそういう多様性と均質化の共存が理由とも考えられる。で、ようやく『ある子供』の話に移ります!


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あらすじー
20歳のブリュノと18歳のソニアのカップルは、生活保護給付金とブリュノの盗みから得た金で生計を立てていた。二人に子供が出来たとき、ソニアはブリュノに真面目に働くようにと紹介された仕事を教えるも、ブリュノはそれを断ってしまう。
ある時、ブリュノは子供と外で二人っきりになったのをきっかけに子供を養子として売ってしまい、それを聞いたソニアは卒倒してしてしまう。ブリュノは子供を取り返すもソニアは激しく怒っており、ブリュノを家から追い出してしまう。
その後、ブリュノが再び盗みを働いた際に子分の14歳のスティーブが捕まってしまい、ブリュノが自首して捕まるのであった。


記憶が頼りなので、このあらすじの範囲で語る事にしようと思います。タイトルの”ある子供”とは誰の事を指すか、読みながら考えて下さい。まず20歳のブリュノという青年は間違いなく”ある子供”であるのですが、彼は近所の子供といつまでもふざけあってる様な精神的に子供の様に感じられ、所謂、アダルトチルドレンの様な印象を受ける。アダルトチルドレンとは機能不全家庭で育った事で成人してもなお、幼少時のトラウマなどがあり成長しきれない大人と解釈して欲しい。しかし家庭的な環境は選べなかったりするので、それを否定してはいけないし、彼は、彼を理解してくれる誰かの存在が必要であった気がしてならない。そんな”大人だけど子供”である彼は、欲求のまま好き放題に行動を起こしてしまい付き合っているソニアに愛想をつかされ追い出されてしまうのである。子供を大切にしたり、ブリュノよりは大人の様に見えるソニアだが、お人形遊びをする女の子などを見たりして僕は幼い頃から子供にも母性の様な物が最初から備わっていると考えている為、子供を大切に思う心だけが備わっていたとしてもソニアもブリュノ同様に”大人”ではないのではないかと考えている。

そこで”大人”とは何かという事について考えてしまうが、考えすぎると堂々巡りになってしまうので僕の考える”大人”についての定義を挙げる。それは利己的ではなく、利他的であるという事。まさしく他者理解という点にある。自分の為だけではなく、他者に大して献身的になれる事こそが”大人”の第一歩と言えるのではないでしょうか。そんな観点で”ある子供”は誰かについて考えて行くと、ブリュノを知ろうとせず突き放したソニアも紛れもなく”ある子供”と言えるのではないか、そう感じる。最初に考えて欲しいといった”ある子供”とは、登場人物全員に当てはまる事だと思います。

あまり虐待についての知識がないので思ったより書く事が出来ないのだけど、本作で起こるのは子供を売ってしまうという信じがたい点だ(実際にニュースとかでは見る)。その理由として考えられるのが、やはり貧困という問題の様に思える。そして”大人子供”であるという二点だ。最初に貧困が理由である事について半分同意で半分反対と言ったのは確かにデータとして貧困家庭に起こりがちであると言われているのかもしれないが、お金(収入)で幸せを測れる物ではないという考えが僕の根底にあるからだ。無論、教育に必要なのはお金でもあるが、お金では学べない物もあるという事を言いたいのだ。なので消去法で考えると、僕は”大人子供”が増えてしまった事が虐待の理由の最も大きな要因であると思えて仕方ない。きっと様々な欲望を肯定してしまう「消費社会」のような社会の形にも影響があるのだろうが(長くなりそうなのでここでは省くが)。やはり身近にも”大人子供”の存在の増加が伺える。果たして僕が定義した”大人”であると胸を張って言える人間がどれほどいるだろうか。こんな分析をしている僕だって”ある子供”なのだ。

出来ちゃった結婚とか聞くけど、子供が子供のまま大人に成長してしまい責任も取れない状態で、子供を育て虐待に繋がってしまう事はとても悲しい出来事だ。でもやっぱり、この話には貧困が繋がってくるし半分賛成であるのだ。教育がし易い社会というのが実現したら、きっと良い社会になると思うけど、それが出来ないのが現実だ。この問題には正解がないし、多くの人が現場をしって考えていく事が重要な気がする。ダルデンヌ兄弟の作品は、ほとんどがこういう社会派ドラマであったり、映画という物は様々な社会を”知る”為の虚構であり現実であるのだ。しかし映画の感想をちゃんと書くって凄く労力がいるなぁ。「あー、面白かった」で済ましてしまいがちなのでブログ始めて良かった。

うつ病になった僕が田中圭一さんの『うつヌケ』を読んだ。

僕がブログを始めた最初の記事で、ちょろっと触れたのですが、僕は”うつ病”でした。いや正確にはカウンセラーや病院に行って診察を受けたわけでは無いので確かではないのですが、うつ病に近い状態だった。僕にとって初めて人を、本当の意味で好きになったと感じる付き合いだった女の子に振られてしまった”喪失感”が引き起こした物であるのではないかなと思っています。何としても話したい一心で何度も連絡したり、会いに行ったりして本当の意味でストーカーになりつつあった。いや、今だから言ってしまうのですが、実際に通報されて家に警察が来て事情聴取された。本当に絶望的な気持ちになったし、何もかも否定された気分で毎日死にたいと思って自殺サイトの様な物を見たりもした。そんなうつ病になり掛けの時期には(今は辞めてしまったが)映画館のアルバイトをやっていて、アルバイトに向かう為に足を運ぶ駅のホームで何度も死のうと考えた。アルバイト中も何とか気持ちを押し殺して、押し殺した。それも長くは続かず「もう行けません」と連絡をし、学校も行かず、とにかく好きな事をした。従兄弟の兄貴分であるKちゃんには何度も相談して優しい言葉を掛けて貰ったし、その親友のMくんの言葉と演劇(「いつ高」)にはとっても救われた。後は両親もそうだし、アルバイト先で最も信頼を寄せていたKさんは本当に頼りにしてて何度も何度も相談をしたのに、正論ばかり言われてしまった事がうつ病だった僕には精神的に辛かった為に連絡先をブロックしてしまった事を謝りたいし、今ならKさんの言葉が正しかったというのが身に染みています。たまにポケモンで対戦する親友のMくんには少し当たってしまった気がするので謝りたい。(なんかイニシャルがKとMばかりや!)後、心配してくれた友達にも感謝だ。そして、ようやく元気を取り戻した僕が出会った本が田中圭一さんの『うつヌケ』という漫画である。


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本の簡単な内容ー
パロディマンガの巨星がマジに描いた、明日は我が身のうつ病脱出コミック!

著者自身のうつ病脱出体験をベースにうつ病からの脱出に成功した人たちをレポート。うつ病について実体験から知識を学べ、かつ悩みを分かち合い勇気付けられる、画期的なドキュメンタリーコミック!


完全に手塚治虫のパクリっぽさMAXで、見るからに怪しいのに思わず手にとってしまった事を嬉しく思います。パクリというかパロディですが僕はそういうの大好きなので、愛すべき大好きな奴だった。しかし日本はパロディについてパクリだと煩いのは何故なんだろう。ある作品をパロディにして面白おかしくする事で社会風刺を描く、そんな感じで奥深さすら感じさせる気がするのだけれど、それが気に食わない人たちがメディアとかで言っちゃうんだろうなぁ...。と、脱線し掛けましたが、この漫画では様々な人のうつ病体験が語られて行くのだが最も近い症状が著者の田中圭一さんだと思った。


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この様に漫画という形式で田中圭一さんの経験が紡がれていく訳だが、まさしく僕もこの様な状態であった。他者には理解されない辛さが、いつまでもいつまでも付きまとい毎日の様にモヤモヤが続く。本を読む気にもなれないし、映画を見ても何も入ってこない。それで数ヶ月間、映画を見ていない時期があって、つい先日ゼミの仲間にそれを話したら(映画好きで通っているので)とんでもなく驚かれたので、本当に異常な時期だった事が分かった。今思うと笑える経験では、あるのですが、どう脱したらいいのか分からない恐怖や不安で押しつぶされてしまい本当に辛い時期だったという記憶だけが残っている。そのゼミの仲間の父親うつ病らしく「うつ病の人には頑張れって言っちゃいけない」とか、うつ病の人に対する接し方について等を話していた時には、本当にうつ病になってしまった同じ様な方々が、いつか心から笑える様になって欲しいと思いました。

本作品の第3話では、うつ病を脱したと思ったら再発してしまう「突然リターン」についてが語られる。本当に治ったと思ったら突然の様にやってくるのが恐ろしい事この上ない。著者の方の分析によると、「突然リターン」はこの様な事らしい。

うつ病は、ある日を境に急によくなる訳ではありません。
一進一退を繰り返しながら徐々に良くなっていくのです。


本当にその通りで、情緒不安定な状態が続いて安定したかと思ったら突然のように振り返したりを繰り返して、ようやく脱する事が出来るのである。この幾度の「突然リターン」にも、優しく応じてくれた従兄弟のKちゃんには迷惑を掛けてしまったので本当に感謝しています。で、田中圭一さんによると、うつ病は気圧や気温の変化で陥りやすかったりがあるらしいが僕には当てはまらないようで、色んなパターンがある事が複数の実体験で語られているので、どれかしらに当てはまるのではないかなと思います。今回『カブールの園』*1という小説で芥川賞候補に入ってる宮内さんの経験も語られてます!サブカル詳しい人は「えっ、あの人も?!」って言う人の体験談を覗けるかもしれません。

ある程度読んでみると、多くの人は自分に自信が無かったり自己肯定感が低い様に思える。僕もそうで何もかも自信がないのである。顔もそうだし、コミュニケーションが苦手な自分が本当に嫌いで仕方がない。それでも誰かに必要とされたいのが人間であって、「自分は必要とされないんだ」と思って考え込んでしまうと余計に悪化してしまう。だから少しでも自分を好きになろうと思ったし、「うつトンネル」を抜けた事で成長した部分があるって今は思えているので、僕は一度うつ病になって良かったと思った。本当に辛い経験である事は間違いないですが。少し逸れますが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で知られるラース・フォン・トリアー*2の『アンチクライスト』という作品は、確か監督がうつ病の時に制作された物で僕的にかなり意味不明で難解な作品に思えていたので、うつ病になった経験が『アンチクライスト』及び『メランコリア』という作品についての解釈を深める物かもしれないと、前向きに思えている。どんなに素晴らしい作品でも、何か現実と地続きで接点が無ければ感じ取れない部分もあるのではと考えているので、やはりうつ病という経験によって以前は得られなかった視点が生まれる気がしている。

せっかくポップカルチャーへの愛を綴るブログだと謳っている訳だし、うつ病の時に元気を貰った音楽を紹介したい。これも落ち込んでたらKちゃんが教えてくれた!笑


FOREVER

FOREVER


それはEnjoy Music Club(略してEMC)のアルバム「FOREVER」だ。もうとにかく曲全体がポジティブに包まれているのだが、根拠のない自信というか、”とりあえずポジティブに歌っとこうぜ”感みたいなユルさが丁度いいし、”僕”と”あの子”しかそこには存在していないかの様な青春が描かれているし、リリックに溢れ出る現実との距離感に共感しまくれるのが最高で最高すぎる点といっても過言ではない。特にお気に入りは「EMCのラップ道」。

やりたい事は沢山あるけど やりたい様に上手くできない
でも、こっから始めよう 何かを今から始めよう
言いたい事は特にないよ それでも上手く行けば採用

あいつも俺も ENJOY MUSIC CLUB
年末年始も ENJOY MUSIC CLUB


”とりあえずポジティブに歌っとこうぜ”って書いたみたいに、とりあえずやってみようから始まって、それって凄く大切な事なのではないかと僕は思う。失敗したっていい、下手でもいい、そんなポジティブさ全開で元気100倍アンパンマン精神にさせてくれる。いつかライブを見に行こう。後はSMAP*3の曲とかひたすら聴いてました。本当に音楽の力っていいなって再認識。そういうのって当たり前のことになってるから、当たり前に日々感謝することも大切だと思った。後は色んな出会いに感謝。なんか色んな人に優しくなりたいなって思うのと同時に、同じ様に苦しむ人に手を差し伸べたいです。この漫画を見て「同じ経験をした人が沢山いるんだ!」って勇気付けられたし、うつ病を改善する方法は同じ経験をした人による自己理解と他者理解を上手く共存させる事ではないかと思った。自己を知る事は他者の理解に繋がるし、逆もまた然りではないでしょうか。勿論、経験をした事ない家族や友人の言葉も大切なので、周りに落ち込んでる人がいたら迷いなく助けてあげて欲しい。

そして『うつヌケ』も超絶オススメしたいので是非読んでほしい。うつ病じゃなくても落ち込んだり、ある種の行きづらさを感じる人に響く内容になっている。そして皆が笑顔で、優しさで包まれる世界になって欲しいと心から思った。僕の好きな人たちとポップカルチャーに愛を込めて、この辺で。


*1:黄禍論という言葉が出てきて恥ずかしながら初めて知った。読んで字のごとく黄色人種を脅威とした人々が差別的に唱えた物である。1895年に起きた三国干渉は、これが影響している。

*2:デンマークの監督。見ていると、うつ病を引き起こしてしまいそうな作風が特徴。映画にハマった頃から偏愛していて多くの作品を鑑賞した。『アンチクライスト』、『メランコリア』、『ニンフォマニアック』は「鬱三部作」と呼ばれており、彼自身が散発的なうつ病に悩まされている為である。『メランコリア』は自身のセラピーの為に制作された映画だとされている。

*3:特に「ススメ!」。36枚目となるはずだったシングル曲。この事があったのでSMAPの解散は涙無くして語れないので、バイト中にSMAPファンの人と語っていたら泣きそうになった。